香港留学生活の始まり


 
 留学のために香港の啓徳空港に到着したのは1986年の8月末のこと。
85年の1月に観光で来てから約1年半ぶり、 8月はさすがに蒸し暑いねぇ。
うだるような暑さの中タクシ−に乗って滞在先のYWCAへ行くと、事前に日本から送った小切手が換金できないと言われビックリ!
某大手都市銀行で小切手を作ってもらったのですが、申し込み用紙には確かに「YWCA」と書いたのに小切手には何故か「YMCA」の文字が・・・明らかに銀行員のミス。
小切手を作ってもらった時の控えを見せて某大手都市銀行の香港支店へも電話して、やっと泊まれることになりました。やれやれ・・・。
私が泊まっていたYWCAは、ウォ−タ−ル−・ロ−ドというところにあり最寄の駅はモンコック、ここには「女人街」があるので、行かれたことがある方も多いのではないでしょうか。


2001年の香港

1986年ごろの香港

 
  次の日さっそく学校の下見へ。
学校は新界(ニュ−テリトリ−)というエリアにあり、モンコックからKCRと呼ばれる電車に乗りその名も「大学」という駅で降りるともう目の前は学校。
私が通う学校は中文大学の中にある「新雅中国文研習所」といって外国人に中国語を教えています。
そこでは、普通語(中国大陸や台湾などで使われている言葉、標準語とも言う、日本では北京語と言われているかも)と広東語の2種類のコ−スがありました。
当時、私が取った普通語のコ−スには世界各国からの学生やビジネスマンなどが多く、広東語の方は香港の教会の神父や修道女が(その制服のせいか)目立っていたような気がします。

 中国語学習経験がまるでない私は、学校が始まってすぐに自分の計画性の無さを反省しだしました。
だって、授業はすべて英語・・・習うものは未知の言語・・・。
日本で少しだけでも勉強してくるべきだったかも・・・と思ってももう後の祭り。
それに私は「学校は解からないことを勉強に行くところ」だと居直って、初日に予習をしていかなかった大胆不敵な奴・・・その日から予習・復習を始めたことは言うまでもありません。
確かに英語と中国語で授業をすると聞いてはいたけど・・・・初級の授業は英語で講義が行われ、訳すのも中国語→英語、英語→中国語。
さすがに定期的に行われるテストは欧米人用とアジア人用の2種類あり、中国語→英語訳は免除されてましたが。

 初級では、発音と基礎会話を勉強します。
特に発音は、毎日毎日繰り返しやらされました。
中国語の発音には日本語と違うものが多く、日本語より顔(特に口の周り)の筋肉をたくさん使うので、発音に授業が終わった後は顔の下半分が強張って痛かったのを覚えています。
これって「顔面筋肉痛」??
やっと発音になれた頃、少しあごの線がすっきりして顔が小さくなったような(?)気がしたので、中国語学習は顔やせに効果があるかも(??)。
たとえ効果が出なくても当方は責任は持ちませんので、ご了承ください。

タイガ−バ−ムガ−デン
(1986年頃)

 クラスメ−トはアメリカ人、イギリス人、スウェ−デン人、韓国人が一人ずつと日本人(私を含め)2人の計6人、韓国人以外は全員女性。
少人数制なので、授業中は答える順番が回ってくるのが早い早い。
おまけに授業は「?」「?」「?」の連続・・・授業には出たくないけど休むともう二度と行きたくなくなるのは目に見えているので、とにかく我慢我慢。
授業に出たくないと思ったことはあっても、不思議と学校へ行きたくないとか日本に帰りたいと思ったことは一度もなかったですね。
香港に来るまで一人暮らしをしたことがなく、ホ−ムシックにかかるかな?と少し心配していたのですが、そんな繊細な人間ではなかったようです。

カオル−ンのネイザンロ−ド
(1986年頃)

 
  YWCAに住んでいたのは8月末から12月初めの3ヶ月ちょっと。
部屋にはベッドと机とイス、そしてクロ−ゼット、電気製品といえるものは借りた扇風機と日本から持ってきたウォ−クマンだけ、高台に建っているせいかエアコンもないのにそれほど暑くないのと何より部屋代が安いのが気に入りました。
確か、1,200HK$(1ヶ月)ぐらいだったと思います。
部屋は8畳ぐらいあり、備品が少ないせいか広くて、一人で住むには十分。
ただ隣がシャワ−室兼トイレなので、毎朝シャワ−の音がうるさい。
11月にはいると同じフロア−の部屋から賛美歌の練習が・・・とても上手なんだけど、テストの前は止めて欲しい・・・。
ある日、文句を言おうと彼女の部屋の前まで行きましたが、あまりに気持ち良さそうに歌っている声を聞いていたら言えなくなり、そぉっと戻ってきてしまいました。
数日後、缶切りを借りに来た同じフロア−の住人が言い残した部屋番号は、「賛美歌の部屋」。
彼女は張りのある歌声とマッチした体格の持ち主、「言わないでよかったぁ、とても勝てそうもない(・_・;)・・・」


ミニミニ情報
今は無き啓徳空港は弁護士の何啓 氏と建設会社の區徳 氏が共同出資して建設され、2人の名前を取って啓徳空港と名付けられました。
建設された当時は、4人乗りの飛行機しか発着出来ないほどの小さな空港だったそうです。

 

AsianMart−aakaatdii 店主          増田眞由美

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